人格形成過程に対する一考察

もしかしたら意識というものは、無意識の力動の欲求・発露を整流・表現すると言う都合の為にデザインされて行くのかも知れない。(力関係から言えば当然と言えば当然だが)

その需要の結果として意識から高次の意味での精神性が生まれ、その精神によって無意識の奔流を整流する、という三すくみの構造があるのだろう。(心から生まれ育まれる理性、の様な。フラクタル構造に近いな。逆に言えば、誰もが高い精神性を持ち得る訳ではなく、しかしその逆の存在には容易になれる、という構造が、現実社会には反映されているのかもな)

自己実現とは、無意識の力動を恣意的に引き出す為に能動的・主体的に意識を精神によってリデザインする様なものなのかもな。

タイプ論・要約

 

心の興味関心の向かう二つの方向性と、意味を認識する為の四機能一組によって構成されている心の定義枠組み、それらによって規定される所謂「性格」と呼ばれるもの

=「タイプ論」

 

原理的には無意識と呼ばれる空間内で

上下軸を司る意識の指向性=「外向」と「内向」

情報を認識判断する為の四機能=縦軸を司る「思考」と「感情」、横軸を司る「感覚」と「直観」

という構成軸による三次元的な座標定位的定義によって形成されたと思われる。

要は空間認識と同様、概念認識にも空間的に展開された機能による認識が必要という事?

 

この構造の中心点且つ全体は「自己」と定義され、「個人の性格」とはこの空間内に位置する「自我の在り方の偏り」によって生じる。

 

 

 

以下心的機能別定義。

 

・外向 – 内向
リビド(心的能動性)が向けられる方向性。
それが外界の物質的な客体に向けられるか、内界の観念的な客体に向けられるかの違い。

 

・合理機能
判断機能軸の二極。客体に対する判断を行う。

・思考
客観的ロジックによる意味付けを行う。

・感情
主観的好嫌による価値付け、客体に対する受容可能性の判断を行う。

 

・非合理機能
知覚機能軸の二極。客体の存在を知覚する機能。

・感覚
現実的な客体の存在を知覚する機能。しかしその対象に対する判断は行わない。

・直観
目の前の現実を超えた予感や予知の類い。具象化行使するには思考機能等の補助が必要とされる。

 

上記の二つの方向性と四機能の内の一つづつを組み合わせたのが「典型的な個人格」となる。

例えば「外向的 – 思考タイプ」とか「内向的 – 感情タイプ」とかとか…計八種類。

要は空間認識と同様、概念認識にも空間的に展開された機能による認識が必要?という事か。

 

 

 

通常使用されるのはこの三次元的空間的に展開された定義の内の一部の機能だけで、構造のほぼ半分以上は劣等機能として無意識内に埋没している。

基本的には男性なら思考機能、女性なら感情機能などの限られた機能を優越機能として優先的に使用し、その他の機能は劣等機能として無意識下に埋没、場合によってはネガティブな形でその機能を表出させる。(男性なら感情的暴発、ヒステリーとか、女性なら破綻した思考、屁理屈みたいに)

 

そして所謂「心的な成長」とは、意識的に劣等的な心的機能を能動的に行使し機能させる事によって心の一面性に対する十全性を獲得してゆく事を指す。

これは所謂「自己実現」プロセスと同義であり、自己実現は心的理論構造上においては「意識と無意識との統合」と表現出来るが、タイプ論上では「性格の全構成要素の活性化」という形で表現出来る。

何故って「無意識の意識化による統合」と「無意識に埋没した心的機能の意識化による活性化」は同義だから。(余談ながら性格に典型的なタイプがあるならその接点では典型的な状況が発生してるだろうな…)

 

 

意味情報獲得プロセスの心理学的過程」にて若干の補項がしてあります。

人の受難と神の苦難の鏡像関係

 

この世の不義と人の蒙昧に苦しむ神の苦難と、ありきたりな人間が政治的世界に組み込まれ自由を奪われる人間の受難。

神の苦難は「受肉」、普遍的存在が有限の個人になる事によって起こる。
人の受難は個性化による全体化の過程で無意識を意識に組み入れる事によって、普遍性の獲得によって、人間集団の中で注目に値する人物になる事によって起こる。

人の受難と神の苦難は鏡像を成す。

 

C・G・ユング著書より一部抜粋・要約・補項

 

要は普遍性を持った存在がリソースの限られた世界で遭遇する典型的な問題とでも言えるか?
物質世界には限界があり、しかしその限界が有るからこそ最適解も生まれるという…

新宗教概念

 

新宗教概念=テクノロジーによって実現されるであろう「神」へ至る概念インフラ構築プロセス=神概念実現プロセス

 

フローとしては

・高等動物分水嶺=高次概念が認識出来るかどうかのハードウェア的分岐点

・鏡像的認識構造=鏡像フラクタル自己認識フィードバックループ

・象徴認識構造=未知情報の概念化認識プロセス

・高等知性体概念=鏡像的認識構造と象徴認識構造との相関による人格精錬フィードバックループ=「自己認識プロセス」

・形而上的人間観=社会通念最適解の形成

・情操制御概念=制御出来ない流れを制御できる部分によって整流する自己制御手法の確立

・神概念実現=知性体におけるソフトウェア的発展過程の最終解=人格問題の最終解

 

…となるか?「神」へ至るために必要なハードウェア的要件定義が出来るかもな…

結果は案外人間そのままに社会性群体に落ち着くかもな…
具体的にどういう形になるかは不明…調律された自己組織化の果て、統制された局所最適解の集合とでも言うべきか?

=「汎用的大統一概念インフラ共通基盤整備計画」

…かなりの汎用性と拡張性を持つ、異種知性体とすら共有可能な「理想」となるかもな…

=あらゆる知性体に共有可能な理想=「汎知性体思想」

汎種族的汎銀河連邦概念の萌芽かも知れない。

=汎知性体思想によって統一された知性体群体=「高次社会性群体」

 

知性体は現実的認識や思考の元に束ねられねばならない。そこにファンタジーの入り込む余地は無いだろう。

高等知性体の宿痾を乗り越える為のファンタジーとの決別。

 


アプスー思想用語集

高等知性体概念

 

知性体におけるソフトウェア的発展過程の結論=高等知性体概念

 

「「投影」という認識行為に対する一考察」で述べた「投影による主体認識系」と「元型による客体認識系」の相関によって人格化は精錬されていくのかも知れない。

つまり

人格=情報認識システム=自我+意識=「自己」−(個人的無意識+集合的無意識)(…面白い逆算だな…)

そして

「投影による主体認識系」と「元型による客体認識系」の相関関係=自律的人格精錬フィードバックループシステム=「自己認識プロセス」

結論としては「高次の人格とは情報認識の極みであり、高等知性体ほど情報の価値が高まる」

 

 

このフィードバックループの確立には「客体」が必要であり、全てはこの「鏡像的認識構造」の産物である。

そして先見的には「アルパ」、そして結果としての「オメガ」なる者

=「自己」

“神は自らの似姿として人を創った”

とか?つまり

「自己」(テンプレート)+鏡像的認識構造(プロセス)+リビド(動因)=人格の極み=「神」

な訳だ、要は。(何気に三位一体)そして

神性の受肉=自己実現=人間を新たな「神」にする事

と、なる…な…

 

 

要は「無力な存在」に、「神」を認識させることによって「神」になりたいという欲動を生じさせ、そこへ至るインフラを用意すれば結果「神」に至るという?

最小構成単位としては

・主体と環境=主題=知性体と世界
・発展プロセス=過程=鏡像的認識構造=「投影」
・「神」概念認識=結論=「自己」=アルパ(始まり)にしてオメガ(終わり)

主体が環境から発生した問題を解決出来る存在足ろうとし、そこへ至るプロセスさえ整えておけば、結果「神」となるという…事かな?

このプロセスは人間社会においても散見される汎用的なプロセスだな…「場と存在と手段と目標」が有ればあとは勝手に育つ、と。
「自律性」は「究極の手段」という事か?シムシティみたいだな…要は「動的」な訳だ、世界は。
ミニマルな構造のフラクタルな連続…

なんでそんな事をされていらっしゃるのかは不明…

 


アプスー思想用語集

不滅なる者

生物の存在理由の帰結としての不死性の獲得とそのデメリット。「不死性の獲得」と「人格の成熟」の相克というテーマ。

 

「生命原理」は存在自体を目的としており、不死性の獲得というハードウェア的発展過程には人格(によって構築される文明と技術)が必要となる。

詰まるところ結果として「永続する生命」とは「永続する人格」を意味し、「生命原理」と「人格」は正しい「存在目的」によって健全性を獲得し、三位一体を為す。

 

そしてその「存在目的」の究極とは創造的行為の極みとしての「神へ至る道」。

 

「影」との対決

「影」とは心理学用語で、自我によて抑圧された自身の心的部分である。意識化(自覚)されていないので無意識に属している。

何が抑圧されているか?何故抑圧されているか?は個人によって異なり、その個人が「否」と断じたその個人自身の総体でもある。

例として挙げるなら、社会通念上の道徳的行為に反すること(他者に危害を加える等)は一般的には抑圧されている。

しかしその抑圧はその時点での価値観によるものであり、その個人の心的な成長によって価値観が広がり心的容量が増すことによって、つまり自分自身を受け入れることによって、「影」は意識化(自覚)され、自らの新たな可能性へと通じる事ともなる。

例として挙げるなら、優しい人間がその性格によって抑圧していた部分を受け入れ厳しさを得てより全人的な存在に近づく、その逆に厳しい人間が優しさを得る、等。

平たく言えば「影」とは自分自身の内に潜在化した悪も含めた全可能性なのだ。

 

人類史とは言い換えれば自らの野蛮な獣性を「悪」と定義し、法や自由、正義、博愛といった形而上的人間観によって抑圧してきた歴史でもある。
そしてその経緯にはインクの代わりに血を用いるかの如き凄惨な歴史的背景が存在する。
我々が原始人の如き粗末な生活を送らずに済むのも、ひとえに文字文化による形而上的人間観の継続的更新のお陰なのだ。

しかし抑圧されたものとは解放を望むものでもある。
現代においても悪を為しても罰のない様な状況下では人は容易に悪を為し、全体主義や群集心理による狂気の沙汰は尽きる事が無い。
教育によって上書きされた形而上的人間観の下には、まさに正銘の野蛮人が潜んでいるのだ、誰の中にも。
後天的な教育以外の面では、人間のスペック自体は数十万年規模で変わっていないだろう。結局脳の構造自体に変化がないのだからスペック自体は変わらないわけだ。

故に万人が自らの「影」との対決を経て意識化し、統合、制御することを求められているが、「影」の統合とは魂の苦悩とすら呼べるほどの心理的、道徳的、感情的葛藤を自らの内に抱えることに他ならず、そんな事の出来る人間なぞほんの一握りしか居ないであろう事もまた、数十万年規模で変わらない事実なんだろう。

しかしこれを持って人間の本性とは獣である、というのも片手落ちと言うものだ。何故って人は善への志向も持ち合わせているから。
そうでなければ現代文明なぞ生まれ様も無かっただろう。
結局形而上的人間観とは、個人が集団の中でもつつがなく生活出来るように、という目的に対する最適解なのだ。

 

「自己実現」という言葉は現在では種々様々な意味で使われているが、本来はこの潜在化した可能性「影」を自我に統合し全人的存在へ至る行為を指す。

「自己」とは心理学用語で、意識と無意識を包括した心全体、且つその中心点という矛盾した高次元の概念であり、自我意識とその影である個人的無意識との統合とは、この「自己」をこの次元に「実現」する、という行為に他ならない。故にこれを「自己実現」と呼ぶ。
そしてこれが心理学によって客観的に定義された人間の生きる目的でもある。

しかしこの次元では「熱くて冷たいもの」や「大きくて小さいもの」と同じく「全体にして中心(点)」といった矛盾を包括した概念も存在することは出来ない。
故にそのような存在を目指す過程が、自己実現の過程自体が、生の目的となる。
つまりは人の心から「影」を無くす事は不可能であり、しかしそれは同時に常に未知の可能性を抱き続けることをも意味する。

人間の心には常に未知なる部分が存在し続けるという事。
これは尽きない可能性の源泉ともなるが、自然現象なので人間社会における道徳的観念などの形而上的人間観は考慮されていない。
故にその発露の際には個人の自我意識による整流が必要となる。

 

ちなみに心全体の中心は自我では無い。
我々は自分の感情をスイッチを入れたり切ったりする様にコントロール出来ず、思考もまた然り。
これはつまりは我々が「自分」と呼んでいる「自我」は、心全体の管理者権限を有していないことを意味する。

自我が心全体の主人であるのならば、我々は感情も思考も自由にコントロールしているはずだが、残念ながらそんな事の出来る人間はこの世に存在しない。
その事実から演繹された心全体の主人が「自己」という概念である。

ユングについて

ユングにとっては、宗教の神話も精神病患者の空想も人間の心が生み出したファンタジーという点では等価値なものであっただろう。ユングの視点は冷徹なまでにフラットだ。
錬金術なりグノーシスなりユダヤ・キリスト教神話なりUFOなりを先入観なくそのまま人間の心的活動が生み出した心的ログであると認識出来て初めてユングの視点が理解できる。

しかしこの

理解という課題には、とらわれない自由な心で取り掛かる

というユングの多岐にわたる研究対象と研究態度こそが誤解を受け、ユングはオカルト的とみなされているのだろう。

しかしユングは「オカルト的」とは真逆の存在だ。ユングの行ったことは人間の有史以来の心的活動を分析し、その心的なログを丹念に洗い出し、そこから規則性を見出し人間の心的な理論構造を発見していったのだ。

例えば結合の神秘は錬金術を扱っているけれど彼は錬金術を行っているのではなく、錬金術的プロセスに投影された心的成長(自己実現)のプロセスを分析していたのだ。この「錬金術」の部分には、宗教神話や精神病患者の空想など様々なものが代入される。

ゆえにユングの方法論に則れば、例えばカバラみたいな現代人には役に立たない理解不能な神秘主義的テキストも、古代人が古代の言葉で編纂した概念獲得具象化プロセスの直観的理解として認識でき、また現代の言葉に翻訳して現代風に理解できるだろう。
このあたりの「認識」を理解出来ると、ユングの持つフラットで広い視点が理解できると思う。(このアプローチは現代のビッグデータの扱いに近いだろう)

彼はその膨大な知識量、思考量を持ちながら、しかし自らを「医者」と定義していた。
実際彼の思考は殆ど思想家や宗教家と呼んでもおかしくない位だが、その思索的結実を最終的には「患者の社会適応」の様な次元にまで落とし込む辺りが、彼の「医者」たる所以なのかなぁ、と感じた。