「思想」が出来るまで

 

「概念獲得プロセス」=客体を認識して把握し、名前を付けて概念にする

「概念演繹プロセス」=手持ちの概念を基に、更に概念を増やす

「概念編集プロセス」=増やした概念を好きなルールで整頓し、概念を構造化する

結果、概念構造体が出来る=「思想」が完成

 

 

その為には「知識蔵」と「思考形式」と「編集エディタ」が有ると便利

=「EIIS構想」と「基本的思考ツール」と「メタ編集エディタ」

 

人類全員を思想家に出来る目処が立ったかな…

 


アプスー思想用語集

思想家

 

最近ブログで扱うタグというか概念が増えすぎて訳が解らなくなって来たのでTreeというアプリで概念構造図というか系統樹をつくって整理してみたら中々面白かった。このノード一つ一つに宇宙が広がっているという…概念構造体とでも言うか…

こうやって点と点を線で結んでその間を埋めてくのかなぁ、とかとか…

 

この空間的に展開された概念式を「アプスーロジック式」と名付けよう。最少構成単位は順列固有IDを持ったノードとそれらを繋ぐリンクとソートアルゴリズム。

思想構築ツールであり思想家を育てる為のツールであり思想家の為の基本的思考ツール…

 

そしてこれらによって組み上げられた思想を「アプスー思想」と呼ぼう。

 


アプスー思想用語集

アルケーロジック構造解析

 

「アルケーロジック式」=対象に名前を付けて概念化し、複数の概念から共通項を見出してその符号から式を組む事によって概念コントロールやクラスタリング等し易くする為の概念演繹ツール=「基本的思考ツール」

もしかしたら認識器の動作アルゴリズムがベースなのかもしれない…それを思考形式で再現したというか?

 

例えば

多神教に於ける神の分化過程=祭祀対象となる客体の認識と序列化の過程=人間の外界認識概念化過程

とか?(余談ながらヒンドゥー三柱神=自然法則という根本的抽象概念の神格化、故に最高神の扱い、なのかもな)

 

「概念自体をメタ的に編集する」と言う概念があり、その結果が

「アドナイロジック」=ミニマル・フラクタル構造

なんかもな…

 

 

インターフェースが必要だな…文章構造自体を直接編集出来るアウトライナーみたいなのが。

=「メタ編集エディタ」

 

現状のテキストエディタでは基本に一次元的で一方通行のフロー記述しか出来ず、これが現代テキストエディタの限界か?

ローカルなら面白いのがいつくかあるが汎用性が無いからウェブにアップロード出来ない

=二次元的三次元的情報の広がりを表現編集共有出来ない

 

線形的なテキストフローしか使えないHTMLの限界というか…3次元的な情報の広がりを表現でき汎用的に使えるインターフェースとフォーマットが必要かな?
アプリケーションの普及や検索エンジンインデックス化、地球規模、歴史規模のデータ量を人間でも扱える様にする為のインターフェース構築、など超超超問題多数だろうが…イメージで考える非言語的思考に近くなるかもな…

=意味情報認識編集インターフェース=感覚的に意味情報を「造形」出来る=非言語的思考用ツールに近くなる=言語によって具象化された意味をより構造的に扱う為のもの=概念構造体作成ツール=「思想構築ツール」(これがあれば誰でも思想が作れるな…マインドマップとかあるけれど。新教育理論に於ける最終テストにしても良いかもな…アプスー式の提出は)

 

画像はテキスト情報を拾えないし編集しづらいからな…Flashならなんとかなりそうだが外部テキストのメタ文章構造構築が出来無さそうだし、画像のAltタグも同様?それ以前に編集に手間がかかりすぎる。

=「メタ編集エディタ構想」=「メタ編集概念」

思考の流れを一次元的なテキストフローで表現し、それを更にメタ的に構造化する訳だ。

 

もしかしたら「アドナイロジック式」が再現できるかもな…最終目的というか。「神へ至る道」だな…

扱える次元数が違うかもしれんが…三次元的に展開された定義把握ですら人間の認識限界を超えてるかもな…

 

 

最終的には人類史上のあらゆる情報を時系列に沿って閲覧出来、編集共有出来る汎用的なヌースフィア情報アクセスコンソールみたいなものが必要になるだろう。

=ヌースフィア情報塊とそのインターフェース=「EIIS構想」

=概念インフラアップデート=アドナイロジックネオテニー促進=文明の発展の促進

 

 

そしてその情報を認識、理解、編集、演繹出来る知性を持った存在の育成

=新しい教育理論の確立=「新教育理論確立構想」

 

根本的にはどうやって「未知」を「集合的」な形で、人類により普遍的な形で認識出来る様にするか?

=類似の符号検索と演繹によって認識対応物を増やす事によって=概念認識アップデートによって=「概念演繹概念」

となるだろうな。

 

 

新教育理論確立構想・骨子」へ続く。


アプスー思想用語集

ファーバーカステル クラシックコレクション万年筆 エボニー・レビュー

ありとあらゆる伝説に巣食う最も恐ろしい存在が  ——今微笑みながら陽光の下に姿を現し、両腕に信頼しきった人間の子供を載せ、黒檀さながらの威厳を持って立っていた。

アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」より一部抜粋・要約

 

SF小説「幼年期の終わり」におけるオーバーロード・カレルレン登場シーンの影響もあって、木軸を買うならこれだなぁ、と決めていたファーバーカステル クラシックコレクション万年筆・エボニー

ニブはデフォルトのEF18kバイカラーニブを使っている。線幅はパイロットのFニブくらいなので、無改造で即実戦に投入出来る。
インクは<エターナライザー>を使用。

 

アウトライン:
金属のキャップに木軸という、同社のパーフェクトペンシルを太くしたような造形で、シルエットは古代ギリシャ神殿の柱を思わせる円柱形。(エンタシスはかかっていないが)。

軸の素材は木製だから意外と軽く使いやすい。
木軸は温かみがあり手になじみやすく、全金属部分の色味もプラチナコートにより若干黄色味がかった銀で温かみを感じさせる。

ファーバーカステル クラシックコレクション万年筆 エボニー

 

ディテール:
キャップはネジ式で気密性に優れてる。
ネジの噛み合わせの接点が複数あり、ネジ式ながらかなり簡単にキャップの脱着ができる。いわゆる4条ネジ。

ネジを締める際はクリック感があり、しっかり閉まったかが判りやすく、高級感がある。これは嵌合式のようにインナーキャップによって実現している模様。
つまりキャップの開け閉め一つに複合的なギミックを仕込んでまでしてとてもこだわっている、と云う事となる。

しかしキャップ開閉の際インナーキャップによって一緒に首軸も回転して緩んでしまうのが欠点か?(細めのOリングを仕込むと解決した)

キャップ内側には樹脂製のパーツが使用されており、少し劣化が心配。キャップ開閉の際はスムーズでいいんだけど。
キャップは尾栓にポスト出来るんだけど、多分着け続けると尾栓に跡がつくかもしれない。

 

クリップは金属ムクでバネ式。クリップ裏には滑り止め用の筋彫りが彫ってあって、ずり落ち難い処理がされている。

 

付属のコンバーターはペリカン・コンバーターと同型のもので、メーカー名を変えただけの模様。

 

総評:
古代、人は意味の永続を願って石に文字を刻んだという。
私もこの黒檀さながらの威厳を持つペンと、インク<エターナライザー(永遠たらしむるもの)>を用いて、永続するに足る意味情報を綴っていこうと思う。

ファーバーカステル クラシックコレクション万年筆 エボニー

 


スペック:
Fabercastell Classic Colection: Ebony/ファーバーカステル クラシックコレクション: エボニー

-全長・13.6cm(キャップ有り)/13cm(キャップ無し)
-最大重量・41g(キャップ含め)/27g(キャップ無し)
-最大軸径・1.9cm(キャップ有り・クリップ含め)/1.1cm(キャップ無し)

Lamy Safari/ラミー サファリ (参考用)
-全長・14cm(キャップ有り)/12.9cm(キャップ無し)
-最大重量・18g(キャップ含め)/10g(キャップ無し)
-最大軸径・1.7cm(キャップ有り・クリップ含め)/1.2cm(キャップ無し)

「影」との対決

「影」とは心理学用語で、自我によて抑圧された自身の心的部分である。意識化(自覚)されていないので無意識に属している。

何が抑圧されているか?何故抑圧されているか?は個人によって異なり、その個人が「否」と断じたその個人自身の総体でもある。

例として挙げるなら、社会通念上の道徳的行為に反すること(他者に危害を加える等)は一般的には抑圧されている。

しかしその抑圧はその時点での価値観によるものであり、その個人の心的な成長によって価値観が広がり心的容量が増すことによって、つまり自分自身を受け入れることによって、「影」は意識化(自覚)され、自らの新たな可能性へと通じる事ともなる。

例として挙げるなら、優しい人間がその性格によって抑圧していた部分を受け入れ厳しさを得てより全人的な存在に近づく、その逆に厳しい人間が優しさを得る、等。

平たく言えば「影」とは自分自身の内に潜在化した悪も含めた全可能性なのだ。

 

人類史とは言い換えれば自らの野蛮な獣性を「悪」と定義し、法や自由、正義、博愛といった形而上的人間観によって抑圧してきた歴史でもある。
そしてその経緯にはインクの代わりに血を用いるかの如き凄惨な歴史的背景が存在する。
我々が原始人の如き粗末な生活を送らずに済むのも、ひとえに文字文化による形而上的人間観の継続的更新のお陰なのだ。

しかし抑圧されたものとは解放を望むものでもある。
現代においても悪を為しても罰のない様な状況下では人は容易に悪を為し、全体主義や群集心理による狂気の沙汰は尽きる事が無い。
教育によって上書きされた形而上的人間観の下には、まさに正銘の野蛮人が潜んでいるのだ、誰の中にも。
後天的な教育以外の面では、人間のスペック自体は数十万年規模で変わっていないだろう。結局脳の構造自体に変化がないのだからスペック自体は変わらないわけだ。

故に万人が自らの「影」との対決を経て意識化し、統合、制御することを求められているが、「影」の統合とは魂の苦悩とすら呼べるほどの心理的、道徳的、感情的葛藤を自らの内に抱えることに他ならず、そんな事の出来る人間なぞほんの一握りしか居ないであろう事もまた、数十万年規模で変わらない事実なんだろう。

しかしこれを持って人間の本性とは獣である、というのも片手落ちと言うものだ。何故って人は善への志向も持ち合わせているから。
そうでなければ現代文明なぞ生まれ様も無かっただろう。
結局形而上的人間観とは、個人が集団の中でもつつがなく生活出来るように、という目的に対する最適解なのだ。

 

「自己実現」という言葉は現在では種々様々な意味で使われているが、本来はこの潜在化した可能性「影」を自我に統合し全人的存在へ至る行為を指す。

「自己」とは心理学用語で、意識と無意識を包括した心全体、且つその中心点という矛盾した高次元の概念であり、自我意識とその影である個人的無意識との統合とは、この「自己」をこの次元に「実現」する、という行為に他ならない。故にこれを「自己実現」と呼ぶ。
そしてこれが心理学によって客観的に定義された人間の生きる目的でもある。

しかしこの次元では「熱くて冷たいもの」や「大きくて小さいもの」と同じく「全体にして中心(点)」といった矛盾を包括した概念も存在することは出来ない。
故にそのような存在を目指す過程が、自己実現の過程自体が、生の目的となる。
つまりは人の心から「影」を無くす事は不可能であり、しかしそれは同時に常に未知の可能性を抱き続けることをも意味する。

人間の心には常に未知なる部分が存在し続けるという事。
これは尽きない可能性の源泉ともなるが、自然現象なので人間社会における道徳的観念などの形而上的人間観は考慮されていない。
故にその発露の際には個人の自我意識による整流が必要となる。

 

ちなみに心全体の中心は自我では無い。
我々は自分の感情をスイッチを入れたり切ったりする様にコントロール出来ず、思考もまた然り。
これはつまりは我々が「自分」と呼んでいる「自我」は、心全体の管理者権限を有していないことを意味する。

自我が心全体の主人であるのならば、我々は感情も思考も自由にコントロールしているはずだが、残念ながらそんな事の出来る人間はこの世に存在しない。
その事実から演繹された心全体の主人が「自己」という概念である。

言語について

言語とは、人間の内界にある内的観念を具象化し、制御、伝達を可能とさせる手段、ないし行為。
音素を記号化し、規則性と体系化による組み合わせによりコミュニケーションの手段としている。
そして人間は自らの意識内容を言語という鏡に反照させることによって客体化して間接的に認識する。

ボディランゲージの延長にある動物の鳴き声等とは相が異なり、法体系やプログラム等自然の延長を超えて自ら秩序構造を生み出す行為に繋がっている。
この文字情報によって継続的に更新される形而上的人間観こそが、人類を賢く振舞わせている。
人類史上において脳の構造に変化が無い以上、人間自体が賢くなっているわけでは無いのだ。

未開社会とは人類史の99%を占める社会形式でもあり、文明化以前の人間様式とは、我々の内に「影」として今も潜在化し続け、表出する機会をうかがっている。それは今でも群集心理や全体主義の前では道徳なぞ何の意味も無くなるという現実が証明している。

人間がその種としての始まり以前から数百万年以上も共に在った「無意識」を発見したのはつい最近、19世紀末の出来事である。
人間は自分自身について何も知らないも同然なのだ。

意味情報獲得プロセスの心理学的過程

人間の意識において無意識下に行われている意味情報獲得プロセス。

 

・認識外 – 無意識的

・前認識 – 投影

・認識 – 意識化

・理解 – 知識化

 

無意識の意味内容が心的状態に応じて活性化し、「投影」という形で間接的に意識に流入する。

投影された意味内容を意識が認識し、取り込むことによって意識は新たな意味情報を獲得する。

意味は理解によって文字情報にフォーマッティング可能となり、公式化された意味情報は保持、交換、伝達可能な知識となる。

 

しかし文字情報が伝えられるのはあくまで知識であり、主観的な感情はいかなる形を持ってしても直接伝達不可能。
文字情報から感情を再現するには想像力が必要となる。

 

 

感情機能による主観的な好嫌という判断は、思考機能における客観的なロジックによる正誤という判断と対をなしている。
感情は価値付けを、思考は意味付けを、それぞれ司る。

成熟した思考はロゴスとして、観測する主体と客体を切り離し、区別、認識、判断を行う。
成熟した感情はエロスとして、分かち引き離そうとする一切を超え、調和を促す情動的関係性を構築する。

この思考と感情の等価的対立関係は、合理的判断という共通項の軸の両極に展開し、こうした二項対立的区別は意識の持つ本質的要素であり、認識の為の条件となっている。
つまりは空間座標の定位には何らかの定点が必要な様に、認識行為にも指標となる何らかの定点が必要である、という事となる。

この対立軸というものの本質は相補的関係であり、両義性の尊重は成熟した自我のなせる業でもある。

 

C・G・ユング「結合の神秘」より一部抜粋・要約・補項

人の生み出すものについて

象徴:
人間にとって未知なものの表現。未知を具象化する試みの過程。

アート・未知の概念を未知なまま他者と共有可能なまでに具象化したもの。

 

記号:
人間にとって既知の概念から要素を抽出して表現したもの。

デザイン・既知の概念を再配置し、利便性を向上させる行為。

 

人間の被造物とは、大なり小なり有形無形にかかわらず、上記の要素の複合であると言える。

象徴に投影された未知の意味内容は、理解される事によって知識となり、投影の対象から外れた象徴は記号に落とし込まれる。

 

文明:
技術によって具象化された思想。

技術・外界を人間向けに改変する際に用いる手段。

思想・経験情報や意味情報を構造的に再編し体系化したもの。

哲学・個人的経験を普遍的原理に昇華したもの。

 

理論構造構築には学者の知験と芸術家のアーティスティックな具象化力が必要。

認識について

人間はその心が感じた思いをそのまま他者に伝達することはできず、現在はもっぱら音声言語によって意思伝達をしている。
そしてさらにその音声言語から多くの要素を削ぎ落とした文字情報というのは、当初人の心が感じていた思いの数パーセントくらいの要素しか残っていないだろう。
それでも、こんな広範囲に汎用的な意思伝達手段があるというのは本当に素晴らしいことだな、と思う。
こんな意味情報伝達手段を持っているのはこの既知宇宙では人間だけだろう、少なくとも今は。

しかしもし仮に、文字情報や音声言語を上回る完全言語のようなもの。例えばテレパシーのような、頭の中のイメージを直接他者に伝達できるような手段を全人類が獲得したとしても、現状からそれほど変化は無いだろう。
結局個人の理解力には個体差があり、その個人が認識できるのは、その個人の理解力の及ぶ範囲まででしかないのだから。

個人はどこまでいっても個人であり、コミュニケーションとは単なる手段に過ぎず、重要なのは認識力なのだ。
正しい認識のみが、己も含めた客体の能力を完全に引き出すことができる。この物理世界の可能性を行使できる。この一点において。

ノートを取ることについて

テキストを何らかの媒体に出力すると、頭で忘れても手が覚えていることがあるので、デジタルやアナログ問わずに、なるべく思ったことをメモやノートに取ることにしている。

 

ノート:
昔からプライベートでメモやノートに言葉や感想を書き込んでいて、今は主にトラベラーズノートに万年筆で書き込んでいる。

内容は出来事や感想や心に残った言葉などのテキストを書いた後、その日の日付をつけている。丁度ツイッターのアナログ版といった感じだろうか。
重要な部分はアンダーラインを引いたり、リマインダー用のハイライターで赤線を引いて後で参照しやすくしている。
記述形式に関しては一時期デジタルデバイスでのテキストエディットにはまっていて、その影響が強い。

テキストエディタやブログのようなインターネットのテキスト系サービスを利用していて、西洋系の人たちの文字文化の層の厚さ、こだわりを強く感じた。

 

メモ:
ちょっとしたメモは主にiPhoneを使っていて、今はデフォルトのメモアプリを使っている。線画も描画できるようになっていて、メモ用途ならこれ一つで事足りる。
アナログなメモにはこのロルバーンを使っている。

以前はアナログメモにこだわって色々試したけど、結局パソコンとクラウド連携ができるiPhoneが便利すぎるのでそちらを使っている。
私が携帯性の高いショート万年筆やインクの耐水性にこだわっているのは、屋外で紙にメモを取るのにこだわっていた頃の名残でもある。

個人的な希望としては、文字情報には永続性を、軸にはその名の通り万年持つ様な頑強さを、それぞれもとめている。

 

ブログ:
日々の感想やらメモやらのフロー情報をノートにストックし、その中からブログに載せたいことをMacのテキストエディタでテキスト化して、最終的にブログにアップロードする。
この情報の段階的な圧縮結晶化プロセスがなんか楽しい。

エディタはフォールディングテキストというアプリを使っている。一時期マークダウンに凝っていたので。
長文はドロップボックス経由でiAライターと言うアプリを使ってMacでもiPhoneでも編集できるようにしているけど、今はiPhoneで長文をほとんど扱わなくなってしまった。

iPhoneのブラウザ経由でワードプレスのコンソールにアクセスして微修正とかしてると、ほんと便利な時代になったなぁ、と思う。

 

以前:
すごい昔、デジタルデバイスを知らなかった頃は小さなメモ帳に付属の細い鉛筆でメモを取っていた。
海外文学をよく読んでて、中でもアルベール・カミュが好きで彼の手帖に影響を受けてあんな感じで日々感じたことをメモしていた。

その後デジタルデバイスを使い始め、一時期はiPhoneのタスクペーパーというテキストエディタ(アウトライナー)をメインに使っていた。
iPhoneのタスクペーパーでひたすら書き込み、クラウド連携でMacのタスクペーパーを使って修正や清書をするといった具合。

スマートフォンのアウトライナーは本当に便利で、文章構造自体を直接編集できるのは、まさにデジタルなテキストツールにしか出来ないことだったので、当時メチャクチャはまっていた。

テキスタイズすると手書きみたいな言語表現からかなり要素が失われるが、定型化とかには強いんだろな…抽象化と言うか。

そして万年筆を知って今の形式に至ることとなる。

 

現在:
デジタルデバイスに傾倒してた理由は、私の字がものすごく下手だからというのが大きくて、鉛筆やらシャーペンやらボールペンでノートを取りたく無かったというのが最大の理由なんだけど、万年筆の筆記体験があまりにも良いので今では万年筆に夢中になっている。字は相変わらず凄まじく下手だけど…

アナログメインでテキスト出力をし始めて、自分の文章の出力形態が変わったな、と最近感じている。
デジタルの頃は頭の中の言葉をデバイスに出力する際、なるべく洗練させて文字数を削る方向で言葉を入力してたんだけど、アナログなノートを使い始めて、文字数を特に増やそう、とは考えていないんだけど、自然と長文を書くようになってきた。
それはデジタルデバイスでブログに出力する際も変わらず、昔に比べたらずいぶんと長文を書くようになってきたと思う。
万年筆は字を書いてるだけでも楽しいので、自然と長文になってしまうというのが大きいと思うけど。

 

使ってるノートに関してはトラベラーズノート・レビューに書いています。以上。