新宗教概念

 

新宗教概念=テクノロジーによって実現されるであろう「神」へ至る概念インフラ構築プロセス=神概念実現プロセス

 

フローとしては

・高等動物分水嶺=高次概念が認識出来るかどうかのハードウェア的分岐点

・鏡像的認識構造=鏡像フラクタル自己認識フィードバックループ

・象徴認識構造=未知情報の概念化認識プロセス

・高等知性体概念=鏡像的認識構造と象徴認識構造との相関による人格精錬フィードバックループ=「自己認識プロセス」

・形而上的人間観=社会通念最適解の形成

・情操制御概念=制御出来ない流れを制御できる部分によって整流する自己制御手法の確立

・神概念実現=知性体におけるソフトウェア的発展過程の最終解=人格問題の最終解

 

…となるか?「神」へ至るために必要なハードウェア的要件定義が出来るかもな…

結果は案外人間そのままに社会性群体に落ち着くかもな…
具体的にどういう形になるかは不明…調律された自己組織化の果て、統制された局所最適解の集合とでも言うべきか?

=「汎用的大統一概念インフラ共通基盤整備計画」

…かなりの汎用性と拡張性を持つ、異種知性体とすら共有可能な「理想」となるかもな…

=あらゆる知性体に共有可能な理想=「汎知性体思想」

汎種族的汎銀河連邦概念の萌芽かも知れない。

=汎知性体思想によって統一された知性体群体=「高次社会性群体」

 

知性体は現実的認識や思考の元に束ねられねばならない。そこにファンタジーの入り込む余地は無いだろう。

高等知性体の宿痾を乗り越える為のファンタジーとの決別。

 


アプスー思想用語集

高等知性体概念

 

知性体におけるソフトウェア的発展過程の結論=高等知性体概念

 

「「投影」という認識行為に対する一考察」で述べた「投影による主体認識系」と「元型による客体認識系」の相関によって人格化は精錬されていくのかも知れない。

つまり

人格=情報認識システム=自我+意識=「自己」−(個人的無意識+集合的無意識)(…面白い逆算だな…)

そして

「投影による主体認識系」と「元型による客体認識系」の相関関係=自律的人格精錬フィードバックループシステム=「自己認識プロセス」

結論としては「高次の人格とは情報認識の極みであり、高等知性体ほど情報の価値が高まる」

 

 

このフィードバックループの確立には「客体」が必要であり、全てはこの「鏡像的認識構造」の産物である。

そして先見的には「アルパ」、そして結果としての「オメガ」なる者

=「自己」

“神は自らの似姿として人を創った”

とか?つまり

「自己」(テンプレート)+鏡像的認識構造(プロセス)+リビド(動因)=人格の極み=「神」

な訳だ、要は。(何気に三位一体)そして

神性の受肉=自己実現=人間を新たな「神」にする事

と、なる…な…

 

 

要は「無力な存在」に、「神」を認識させることによって「神」になりたいという欲動を生じさせ、そこへ至るインフラを用意すれば結果「神」に至るという?

最小構成単位としては

・主体と環境=主題=知性体と世界
・発展プロセス=過程=鏡像的認識構造=「投影」
・「神」概念認識=結論=「自己」=アルパ(始まり)にしてオメガ(終わり)

主体が環境から発生した問題を解決出来る存在足ろうとし、そこへ至るプロセスさえ整えておけば、結果「神」となるという…事かな?

このプロセスは人間社会においても散見される汎用的なプロセスだな…「場と存在と手段と目標」が有ればあとは勝手に育つ、と。
「自律性」は「究極の手段」という事か?シムシティみたいだな…要は「動的」な訳だ、世界は。
ミニマルな構造のフラクタルな連続…

なんでそんな事をされていらっしゃるのかは不明…

 


アプスー思想用語集

元型論・要約

 

人間が客体を「認識」するためには(外的物体等に「意味」を見出す為には)内的な対応物が必要となる。
哲学では「イデア」等と呼ばれるものを、心理学では「元型」と呼ぶ。

「意識」とは人体の各種感覚器から得た情報を統合処理する機能だが、その意識が「知覚」した対象に対する「認識行為」は、「無意識」と呼ばれる領域上で実行される「元型」と呼ばれる潜在的指向性に沿って動作するとされる。

ユング曰く

世界の「イメージ」は世界の半分を為す

 

 

人間の「心」は、認識の主座である「自我」と、それによって認識された「意識(領域)」、そして自我によって認識されていない「無意識」と呼ばれる領域に別けられる。

「無意識」はさらに個人的な要素によって構成された「個人的」無意識と「非個人的」な領域に別れ、非個人的な領域は人類共通の普遍的な心的基盤である為に「集合的」無意識と呼ばれる。

これは「自我」が個人ごとに様々な個性を帯びながらもハードウェアとしての「脳」の構造が同一な様に、人間の「意識」もまた多様な個性を見せながらもその深層においては同一なソフトウェア基盤の上で実行されている、という仮説とも言える。

そして心は深層へ向かう程(意識領域から個人的無意識、集合的無意識へ向かう程)属人性を失い、独自の普遍的自律的主体性を帯び、最終的には本能の様な反応系を経て物質的基盤ヘと至るとされる。

 

意識は物事を「知覚する」が、逆に言えば「知覚しか出来ない」、とも言える。
元型とはその知覚された客体に「意味」や「価値」を与える認識機能。

集合的無意識上で実行され、決まった形を持たない観念(先入観)そのものの様な存在で、民族や地域、文化、個人によって様々な形を取り時代と共に変化するもの、とされる。

この「集合的無意識」という現象は、複数の民族神話や精神病患者などの空想を「人間の生み出したファンタジー」として同列に扱い、その比較から共通項を見出す事により、これら類似性の有る空想を生み出す時代性、地域性を超えた人類共通の心的基盤が有るのでは?との類推から成り立っている。
そしてその活動は、有史以前からストックされ続けた静的な太古的経験情報の再現のみならず、動的な、個々人の現実生活的要素をも包括していると考えられる。

そして人類規模での個人的経験情報の集積による集合的無意識のアップデートと、集合的無意識からもたらされる「啓示的」な意味情報による(集合的)意識世界の更新は、ある種のフィードバックループを為しているものと考えられる。

 

しかしそれがどの様にして具体的に人類個体で実行されているのかは不明。
人間の個体情報は物理的な遺伝経路を辿るだけであり、しかもその個人の経験情報はその個体の死と共に失われ、如何なる形であれ遺伝的には継承されない筈だから。

それが個体の遺伝的経路を越えて民族や種族にまで及ぶほどの潜在的情報共有基盤とその歴史単位規模での全面的アップデートとなると、何らかの未知の構造(非物質的な!)の存在の可能性すら考察の対象に入る。

実際ユング自身は神話や伝説などに登場する所謂「あの世」は心理学に於いては「集合的無意識」の単なる言い換えに過ぎない、とまで言っている。

不可能事を消去していけば、後に残った可能性は、どんなに可能性が低く思えても真実に他ならない

との言葉もあるが、果たして…

 

この「認識の為の対応物」と言う概念をより深く演繹して行けば、人間の「人格」を認識出来る存在は、「人間的な人格」ないし「人格的な何か」という対応物を持つ、それ故の「人格神(人格を持った神)」、といった存在すら仮定できる。

もしくは、人間が「神的な存在」を認識する為には、その対応物となる「神的要素」が内在していなければならず、それ故の神概念認識の為の「元型」と言う反照。

そして恐らくこれらの考えは鏡像を為すのだろう。

 

詰まるところ、「歴史とは進行し続ける神性の受肉」であり、「自己実現」とは、敢えて誤解を恐れずに言えば、「神が人間を通じて外界に実現する過程」そのもの、とも言えるだろう。

「生」のプロセス

未分化 – 分化 – 統合がこの宇宙における生のプロセス。
このプロセスは宇宙誕生時における素粒子の働きから、現代における人間の社会的な行動、個人の内的な心の働きに至るまで、あらゆる場面に通底している。

 

このプロセスは世界各地の神話や物語において生と死と再生や創造、秩序、破壊(による再生)といったモチーフで表現されており、例えばキリスト教神話におけるイエスの生と死と再生は、典型的な英雄神話であるとともにこの「生のプロセス」の象徴でもある。

生(未分化)・諸要素が混沌としたひと塊りな状態

死(分化)・認識によって各要素が機能ごとに細分化されてバラバラになった状態

再生(統合)・各要素があるべき目的の元に再配置された状態

これが「人間に受肉した神が人として死に再び神へ至る」というストーリーの心理学的な象徴解釈の一例である。
ここで未知のキリスト教神話の象徴は、そこに投影されていた意味を理解され一旦死を得、知識として再生されてもいる。

 

ここで気をつけてもらいたいのは、還元論的アプローチではこの解には辿り着けない、という点だ。
還元論では精々人が死んで生き返る訳なぞ無い、程度の発言しかできないだろう。

この解は、物理的なアナロジーを用いて間接的に未知の意味が提示される「投影」と言う無意識の持つ心的機能への理解によって、はじめて可能となる。

心理学とは

心理学とは意味情報を構造的に取り扱う試み。
人文学と自然科学を結ぶ接点であり ——往々にして異なるもの同士の接点ではインターフェースが生成されるが—— 心理学はその好例。

心理学はその成立の過程で宗教や哲学の流れを汲むが、それらの鏡像ともいうべき別物とも言える。
キリスト教とユダヤ教が、仏教とヒンドゥー教が、同じ流れの中同じものを扱いながら別物である以上に、それらと同じものを扱いながら全くの別物である。

 

主観的な人文学的視点では、意味に対する認識はそれを生み出した個人の属人性を超えられず(客観的な根拠が無い)、自然科学ではそもそも意味自体を扱えない。

しかし心理学的視点よって、人文学は自身を客観的に認識するのに必要な反照を得、自然科学は意味情報を取り扱えるようになる。(心理学的視点とは、複数の人文的テキストから共通項を見出し理論構造化する横断的見識や俯瞰的考察のこと)

 

人文的内容に投影された象徴と、自然科学的な知識。この、未知と既知の接点にあり、それらが互いの領域へアクセスするためのインターフェースとして生まれたのが心理学なのだ。

そして心的理論構造を理解するには知性と想像力が必要となる。何故って心的構造は無形の理論構造だから。

人間と意味

人間存在を理解するには、人間の目的・存在理由を、創造主の視点で考察する必要がある。
人間の視点のままでの人間理解では、人間からは単なる動物や自己保存・増殖装置以上の意味を見出せないだろう。

人間の「意味」を無視すると人間は只の物でしか無くなる。書物の内容を無視すると、只の紙とそれに乗ったインクでしか無くなる様に。
どこまで紙の質やインクの成分を分析したところで、ゲーテのファウストを理解した事にはならないのだ。

人間を理解できるのは人間だけであり、その「意味」を認識できるのは、人間の持つ意識だけなのだ。

錬金術と宗教が自然科学と心理学へ至る歴史的経緯

錬金術師達が黄金造りや不死の霊薬といった世俗的な目的を超えて、救世主の再臨のような宗教的テーマを錬金術に与えていたのは、しかしその結果が個人的な作品としてしか結実しないという事実は、「聖霊による個人への神性の受肉」というキリスト教的テーマの継承と発展を意味する。

宗教的真理は諸真理を示すが、人間の生活は全て永遠の真理の高みで営まれているわけでは無く、それを補完する錬金術が個別的具体的な問題解決を模索し、結果文明の利器を生む自然科学の父となった。

かくして信仰の光は文明的精神の外、文明人の内に生きる正銘の未開人としての「影」心の闇を照らす光となり、心の医学としての心理学へと結実する。

 

C・G・ユングより一部抜粋・要約・補項

人の生み出すものについて

象徴:
人間にとって未知なものの表現。未知を具象化する試みの過程。

アート・未知の概念を未知なまま他者と共有可能なまでに具象化したもの。

 

記号:
人間にとって既知の概念から要素を抽出して表現したもの。

デザイン・既知の概念を再配置し、利便性を向上させる行為。

 

人間の被造物とは、大なり小なり有形無形にかかわらず、上記の要素の複合であると言える。

象徴に投影された未知の意味内容は、理解される事によって知識となり、投影の対象から外れた象徴は記号に落とし込まれる。

 

文明:
技術によって具象化された思想。

技術・外界を人間向けに改変する際に用いる手段。

思想・経験情報や意味情報を構造的に再編し体系化したもの。

哲学・個人的経験を普遍的原理に昇華したもの。

 

理論構造構築には学者の知験と芸術家のアーティスティックな具象化力が必要。

メソポタミア文明の結論としてのキリスト教から心理学の発生に至るまで

文明の発生:
食糧や火、水等自然の恩恵を甘受する狩猟採集から、自身で必要なものを生産する農耕牧畜への変化とそれに伴う文化の成熟。文化の成熟によって営まれるようになった創造的行為と行為が具象化された成果は相関進化し、結果文明が形成されたと思われる。

 

シュメール人の世界観:
シュメール神話における、天と地の間に生まれた風を司る主神エンリルと、大地と地下の海アプスーとの接点で出来た泥から生まれた人間の対比は、実現されるべき理想としての自己と、外界と内界(無意識)との接点から生まれた自我という関係の象徴と解釈できる。
アプスーとは無意識の象徴と言った所か。

 

メソポタミアの宗教観:
各都市国家に都市神がいて王権を奪い合う構図から、アッカド、アッシリア、バビロニアなどの広域帝国の出現による都市神や神話の習合の結果、一神教的宗教観と世界宗教の萌芽、王の神格化による神の受肉という哲学概念の形成へと繋がったと考えられる。

 

メソポタミア文明の結論としてのキリスト教:
メソポタミアで発生した文明と戦乱による離合集散は宗教、哲学体系を生み出し、ヘブライ人の手でユダヤ教へと纏められた。

後にナザレのイエスをきっかけに民族宗教から解放され世界宗教としてのキリスト教が発生したと思われる。

ヘブライ人のメソポタミア史に置ける被征服民という立場が、都市国家間における敵を必要とする戦いの神から法による客観的な支配と言う概念を生み、さらに愛と寛容による統治という世界宗教の特色を育む萌芽となったと思われる。

 

心理学の発生:
恐るべきユダヤ教の神を「愛」と定義して無害化する試みがキリスト教神話。
その結果人間にとって都合の良い部分はキリストとなったが都合の悪い部分も抑圧された潜在力として同等の力を与えられた。

この象徴の中には人間の意識と無意識の分化という有史以前から続く長い歴史が表されている。
そして19世紀末に至り人間の意識が無意識を客体として観測可能な迄に分化は進み、結果学問としての心理学が発生した。

その背景には、近代革命による「合理的」精神が宗教等に代表される「非合理」的なるものを抑圧した結果世界大戦に代表される惨劇が引き起こされた、と言う反省から来る、「非合理」的なるものの現代的(心理学的)受容、と言う歴史的必然が存在する。

今後は意識という現象(ソフトウェア)と脳という臓器(ハードウェア)を科学的に紐付けてゆくものと思われる。

 

物質的支配と思想的支配の違い:
オリエントの統一は優秀な個人の手で確立されその死と共に衰退、優秀な組織体の支えが有っても数十〜数百年で破綻した。
しかしその中から生まれたユダヤ・キリスト教世界の寿命は二千年を超えようとしている。
思想による統一とはそのリソースとなる情報が量という概念を持たない為に空間的にも時間的にも制約を受けないのかもしれない。

そして高次な情報とは物質的な豊かさの結晶でもある。

ユングについて

ユングにとっては、宗教の神話も精神病患者の空想も人間の心が生み出したファンタジーという点では等価値なものであっただろう。ユングの視点は冷徹なまでにフラットだ。
錬金術なりグノーシスなりユダヤ・キリスト教神話なりUFOなりを先入観なくそのまま人間の心的活動が生み出した心的ログであると認識出来て初めてユングの視点が理解できる。

しかしこの

理解という課題には、とらわれない自由な心で取り掛かる

というユングの多岐にわたる研究対象と研究態度こそが誤解を受け、ユングはオカルト的とみなされているのだろう。

しかしユングは「オカルト的」とは真逆の存在だ。ユングの行ったことは人間の有史以来の心的活動を分析し、その心的なログを丹念に洗い出し、そこから規則性を見出し人間の心的な理論構造を発見していったのだ。

例えば結合の神秘は錬金術を扱っているけれど彼は錬金術を行っているのではなく、錬金術的プロセスに投影された心的成長(自己実現)のプロセスを分析していたのだ。この「錬金術」の部分には、宗教神話や精神病患者の空想など様々なものが代入される。

ゆえにユングの方法論に則れば、例えばカバラみたいな現代人には役に立たない理解不能な神秘主義的テキストも、古代人が古代の言葉で編纂した概念獲得具象化プロセスの直観的理解として認識でき、また現代の言葉に翻訳して現代風に理解できるだろう。
このあたりの「認識」を理解出来ると、ユングの持つフラットで広い視点が理解できると思う。(このアプローチは現代のビッグデータの扱いに近いだろう)

彼はその膨大な知識量、思考量を持ちながら、しかし自らを「医者」と定義していた。
実際彼の思考は殆ど思想家や宗教家と呼んでもおかしくない位だが、その思索的結実を最終的には「患者の社会適応」の様な次元にまで落とし込む辺りが、彼の「医者」たる所以なのかなぁ、と感じた。