生きた神話としての「2001年宇宙の旅」

「2001年宇宙の旅」は第三千年期に再臨する救世主の物語である

 

「2001年宇宙の旅」プロット:
物語は古代アフリカから始まる。
荒涼とした風景は大規模な干ばつを意味し、猿人の群れは食糧不足、肉食獣の驚異等により自然の摂理にしたがって絶滅する運命にあった。
オアシスを他の群れにより奪われ緩慢に滅びを迎えようとしている猿人の群れの前に現れた黒い石板の様な物体。
猿人はモノリスの影響により道具を使い始める。
新たな食糧を得、外敵を排除する術を得た猿人は、生存競争に打ち勝ち未来を手にした。

人工衛星達のワルツで始まる西暦2000年代。
衛星は核兵器を搭載した監視衛星で、生存競争に打ち勝った猿人の末裔はその刃を内に向けることによって自滅しようとしていた。
人類は月面で強力な電磁波を発する黒い石板のような物体を発見する。
発掘されたモノリスは太陽光に反応して木星方面に強力な信号を発した。
この物体は、地球上に発生した生命が宇宙に上がり、月面にあるこの物体の発する信号に気付き、掘り起こすことが出来るまでに成熟したことを知らせる一種の警報装置であると推測され、その信号の送り先とその目的を探るため人類は初の木星間有人飛行を計画する。
木星探査の途上、船の制御コンピューターの叛乱により乗組員のほとんどが死亡。
ひとり残されたボーマン船長はHALの死とひきかえに秘匿されていたこの計画の真の目的を知り、木星圏にて巨大なモノリスを発見する。

木星軌道上の巨大なモノリス。スターゲートによって他天体に飛ばされたボーマンは、様々な光の奔流、爆裂する銀河のヴィジョン、幾何学イメージをへて白い部屋に辿り着く。
そこは太古の地球圏にモノリスを遺した地球外知的生命体が月面のモノリスから送られた地球の情報を基に用意したもてなしの部屋であった。
その部屋で人間としての生を全うしスターチャイルドに変容するボーマン。
彼の地球への帰還によって物語は終りを迎える。

 

「2001年宇宙の旅」プロット解説:
ホメロスの「オデュッセイア」、アメリカ西部開拓史を扱った映画「西部開拓史」、脚本にキューブリックと共に名を列ねるアーサー・C・クラークのSF短編「前哨」、これらの作品が制作者によって直接言及された2001年宇宙の旅の原典である。

「オデュッセイア」はそのまま「2001-A Space Odyssey」というタイトルの一部であり、キューブリックやクラークのコメントの中で作品のイメージソースとして名前が挙がっている。
HALの初期の名称はアテーナ、オデュッセウスを導くギリシャ神話の女神から来る名前だったが、最終的にはオデュッセウスの部下を喰い殺す単眼巨人キュクロプスと同様の一ツ目をあしらわれ、実際に主人公以外を皆殺しにしてしまう。
おそらく初期のプロットは、主人公がオデュッセウスのごとく受難と悲劇にあいながら神々の世界を垣間見て地球に帰還する、というシンプルなものだったのではないだろうか?
その他両者の共通項は頻繁に登場する妙に印象的な食事シーンにも見いだせる。

「太陽系開拓史」というのが2001年宇宙の旅の初期に検討されていたタイトルの一つで「西部開拓史」に対するオマージュらしく、この二つは劇の構造的にも似通った部分がある。
そして西部開拓史のオープニングの映像がエンディングで現代につながるという部分は、2001年宇宙の旅で猿人が放り投げた骨が人工衛星に切り替わるシーンを思わせる。
2001年宇宙の旅が当時のSF映画の常識を覆すリアリズムを目指しながらもコンピュータの反乱という独創的とは言えないモチーフを用いた訳も、或いは西部開拓史の影響かもしれない。
西部開拓史もクライマックスを西部劇でおなじみのモチーフである現金輸送車襲撃で飾っているからだ。

「前哨」は原作という扱いで、ピラミッド形をしたモノリスの原形と思しき物体も登場し、月でのモノリス登場シーンの直接のイメージソースでもある。
だが本来はクラークのSF小説「幼年期の終り」こそ原作というべきだろう。
モノリスというキャラクターは幼年期の終りに登場する宇宙人カレルレンから言葉と個性を削除したもの、ともいえる。
実際モノリスがあの形に至るまでには幾つかの変遷があったらしく、その中にはヒト型の宇宙人も含まれていたそうだ。
キューブリック自身は幼年期の終りのテーマが気に入っていたらしいが、すでに映画化権が取得されていたというあたりに何か理由があるのかもしれない。

そして直接の言及はないが引用が類推されるものにダンテの「神曲」、ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」、そして「聖書」のユダヤ・キリスト教神話が挙げられる。

スターゲートの場所は本来木星ではなく土星にあったという。
これは「神曲」での土星天からのびる恒星天への梯であり、それはボーマンが最後に辿り着いた白い部屋が天国であるということの暗示でもある。
しかし当時の技術では土星の環を再現することが非常に困難で、粘り強く続けられたが結局納得の行くものは出来なかったそうだ。
そして2001年宇宙の旅を区切る三幅対の劇構造もおそらく神曲の地獄・煉獄・天国から来ているのだろう。

ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」には2001年宇宙の旅のイメージソースと思しき次のような文がある。

ある朝、かれは空を染める紅とともに起ちあがり、日の前に歩み出、日に向かってこう語った…

人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間はまさにこうゆうものであらねばならぬ

わたしは君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子になり、獅子が小児となるかについて述べよう

大いなる正午とは、人間が、獣と超人とのあいだに懸け渡された軌道の中央に立ち…

小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である

まずかれらの耳をこっぱみじんに砕いて、目で聞くことをかれらに学ばせなくてはならぬのか…

キューブリック自身のコメントの中にも「ツァラトゥストラかく語りき」からの引用を見ることができる。

「人間とは、原人と文明人の橋渡しであるという説もある…」

人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ

「2001年のことはあまり話したくない。なぜならあの映画は本質的に言語によらない体験だからだ…」

そしてリヒャルト・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラかく語りき」は印象的なメインテーマとして採用されている。

最後にこの作品の主調低音ともいうべきものとして「聖書」のユダヤ・キリスト教神話を挙げることができる。
猿人がモノリスの影響で道具を使い他の部族を撲殺するエピソードは、創世記の知恵の実を食した人類の堕落とカインとアベルの最初の殺人を思わせる。
核兵器を搭載した人工衛星に取り囲まれた西暦2000年代は末期的な黙示の世界であり、ボーマンとHALの対決はキリストとアンチキリストの戦いの隠喩といえるだろう。
そして最後にボーマンが辿り着いた白い部屋、響き渡る不協和音の様な声の主である異星人、その御使いであるモノリス、そしてボーマンが変容したスターチャイルドはそのまま天国における父と子と聖霊の三位一体を表す。
そして2001年という第三千年紀の始まりに救世主が再臨することによって作品は幕を下ろす。

この映画のプロットは近未来の宇宙開発や地球外知的生命の実相を示すといったものではなく、宇宙規模に舞台を広げたユダヤ・キリスト教神話のイベントの唯物的な再現ともいえる。
しかしキューブリックは現代風解釈による宗教映画を撮りたかった訳ではないだろう。
聖書のエピソードもまた意図的に組み込まれたものであり、本質的なテーマを表現するための手段に過ぎない。
高名なSF作家をパートナーにし、大企業や専門機関のバックアップを得て創られたサイエンスフィクションとしてのディテールを使って、莫大な予算と長い製作期間によって撮影された美しいフィルムを使って、彼は何を創りたかったのか?
この映画に込められたテーマとは「救い」ではないだろうか?
それは常に臨終に立ち会い、人類を新たなる世界へと導いてゆくモノリスによって象徴される、哀れな小羊に差し伸べられる超越的な存在による救い、受動的な、人間に対して締念すら感じさせる宗教的な救いである。

 

キューブリック作品史概略:
キューブリックが手掛けた長編作品は全十三本「恐怖と欲望」「非常の罠」「現金に身体を張れ」「突撃」「スパルタカス」「ロリータ」「博士の異常な愛情」「2001年宇宙の旅」「時計仕掛けのオレンジ」「バリーリンドン」「シャイニング」「フルメタルジャケット」「アイズワイドシャット」がそれにあたる。

「突撃」で頭角をあらわしたキューブリックは主演のカーク・ダグラスとのつながりで、彼が製作・主演の映画「スパルタカス」の監督を勤める。
そこで彼は「監督とはプロデューサーに雇われた一番給料の高いスタッフにすぎない」という結論に達し自らの作家性を打ち出す自主製作の道を歩むことになる。
そして「博士の異常な愛情」の成功で大監督の仲間入りを果たした彼は「2001年宇宙の旅」を手掛けることになる。
「2001年宇宙の旅」は批評家の酷評と観客の熱狂によって迎えられ、かなりの収益とともに後の多くの作品に影響を与えることになる。
次に手掛けることになる「時計仕掛けのオレンジ」はその過激な内容から非道徳な内容との非難、暴力シーンへの喝采、主人公にピカレスクな魅力を感じる等様々な反応が起きた。
その後脅迫等により身の危険を感じた彼は家族と共にイギリスの片田舎、厳重に警備された屋敷で暮すことになる。
そして次に手掛けた「バリーリンドン」はキューブリックの予想を大きく下回る結果になり、彼自身もう映画が撮れなくなるのではないかという怖れを抱いたという。
その後は非常に寡作ながらも秀作を幾つか送りだし、1999年にこの世を去った。

 

「黙示の世界」三部作:
人間の一生は太陽の運行に例えることができる。
海原より生まれた太陽は弧を描きながら高みを目指し、しかしやがて母なる海へと回帰する。
キューブリックの作品史をこれに当てはめるなら2001年宇宙の旅はまさしく“大いなる正午”と言えないだろうか?
そしてその前後作はそれぞれ「黙示の世界」を扱う意味で三部作といえる。
「博士の異常な愛情」の設定考証によって生まれた思想が「2001年宇宙の旅」の原点であるなら、この作品と対極に位置し対となる作品が「時計仕掛けのオレンジ」となるだろう。

「博士の異常な愛情」初期プロットは「核戦争によって自滅した人類史の異星人による再現ドキュメンタリー」であるという。
核兵器と核戦略について詳しく調べ上げ、そこに在る大きな矛盾を、そしてこの世界とそこに住む人間の危うさを映像化したのが「博士の異常な愛情」ならば、そこに描かれた馬鹿馬鹿しいまでに下らない現実に対する救いを描いたのが「2001年宇宙の旅」と言えないだろうか?
そして「2001年宇宙の旅」の「HAL」という役柄は「博士の異常な愛情」に対する一つの答えなのかも知れない。
HALの役割はもの言えぬ道具達の代弁者であり、最初の殺人に使われた最初の道具は、地球を巡る核兵器となり、最終的にディスカバリー号、HALとなる。
そして人間と機械は実は全く信頼しあっていないという状況が機械による殺人という結果に収束してゆく過程においてHALは「実例が示すように、ミスを犯すのは人間だ」と述べる。
HALという存在とそのエピソードは、道具自体は単なる手段であり善悪は使うもの次第ということを実例を持って示す、キューブリック流の警鐘なのかもしれない。

「時計仕掛けのオレンジ」は2001年宇宙の旅の影であり、救世主に対するアンチクライストを描いた作品である。
莫大な予算に対する年齢制限ゆえの低予算、近未来の宇宙と時を同じくした無関心故に荒廃した地上、普遍性のためにあらゆる生きた要素を切り詰めた2001年に対する当時の、結局は廃れてゆく流行を積極的に取り入れた様式、キリストの一生を模した使徒の裏切り、死して後の復活というプロットがそれを示している。
2001年宇宙の旅が個性や時代性を可能な限り排除し代わりに普遍性を得るというスタイルを徹底し、クラシックをメインのBGMにしたのは意図的だろう。
生に溢れたものはその時点では最高のものであってもいつかは命を失う運命にあり、死とは永遠と同義だといえる。
観る者によっては硬質で生命を失った機械的な印象を受けるのにはそのような理由があるのではないだろうか?
だが同時代の他のSF映画と比較してみるとその配慮が実を結んでいることが判るだろう。

そしてこれらの作品は、最悪の結果を描くことによって警告する、放っておいたらこうなってしまいますよ、といった類いのシンプルな寓話でもある。

 

キューブリックの世界観:
楽園にて滅びゆく猿人に救いの手を差し伸べる神のごとき異星人、という唯物論的に再構成されたユダヤ・キリスト教神話的プロットはキューブリックによる「神は死んだ」なのだろうか?
ツァラトゥストラかく語りきにおいて、神は死んだといいながら自ら神のごとき存在に肥大してゆく主人公。
そして、人の身で神になろうとした者の末路は彼自身が証明してしまったのではないだろうか?

「天然痘やジフテリアが自然なものではないように、死も自然なものなどではない」

と言い切ってしまうキューブリックも、この時既に自分をより大きな存在と同一化してしまったのかもしれない。
このような状態の人間は精神的な力に溢れており、この映画はその賜物であるともいえる。
しかし思考を一面化しひたすらに先鋭化を重ねたその先には、あの万能感を伴った永遠への飛躍が待ち受けているのだろう。
そして飛躍の後に起こることは既に様々な神話や物語が述べている。
徐々に活発な心を失ってゆくキューブリックの未来はこの時既に暗示されていたのかもしれない。

「最も深い心理学的レベルでいうと、この映画のプロットが象徴しているのは神の探究だ。そして最終的には科学的に定義された神といったものを提出している。この映画はこの形而上的概念の周りを回っているのだ。ドキュメンタリーのような雰囲気はこの詩的なコンセプトに対する観客の根強い抵抗を和らげる為に必要なことだった。もし2001年があなたの感情、下意識、あなたの神話への心の傾きを掻き立てたのなら、それは成功したのだ。」

というのがキューブリック自身の2001年宇宙の旅に対するコメントである。
しかしこれは“嘘はついていないが肝心なことは隠してる”のかもしれない。
この映画はキューブリックの言葉を借りるなら「科学的に定義された宗教神話」であり、何もかも説明しないのは「作品を死んだ知識ではなく生きた体験として受け手に伝える為」であると共に「伝統の異端的な解釈に対する保守的な人間の偏見を回避する為に必要なこと」と言い換えることもできるだろう。
サイエンス・フィクションとしてのディテールは「語りぐさになるような良いSF映画」の為の小道具であって「科学的に定義された神」という受け入れ難い概念に対する「観客の根強い抵抗を和らげる」為の手段でしかない、とすらいえる。

「人々がこのダモクレスの剣が頭の上に振り上げられているような状態を受け入れているのは、死に対する恐怖もあると思う。人間は自分が死すべき存在であると自覚している唯一の存在だが、それと同時にほとんどがその自覚と、それが含んでいる事柄にまともに向かいあうことができない。何百万という人々が、そのために、多かれ少なかれ感情的な不安や緊張、葛藤を経験している。それが高じると人々は神経症になり、欲求不満や苦々しさを抱えて生きてゆくことになる。これはしだいに歳をとり、死ぬ時期が近付くにしたがってますますひどくなる。この恐怖を和らげてくれる宗教に心の慰めを見い出す人々は少なくなる一方だ。その代わりに、彼らは核戦争が起これば世界も自分とともに死んでしまうことに、無意識に安らぎを見い出しているんじっないかな。神は死んだ、だが爆弾は生き残っている。したがって恐ろしい死にさらされてるのは、もう自分だけではない。もうすぐ処刑される男が聞いて喜ぶ唯一の報告は、彼が死んだ翌日彗星が地球に激突し、全人類を滅ぼす、という報告だけだ、とサルトルが何かに書いている。これは集団自殺願望とか、自己破壊衝動というより、死という苦痛に満ちた恐ろしい孤独のなせる技だろう。」

以上の彼のコメントによって当時の彼の世界観を伺い知ることができる。
宗教によって人々は死の恐怖から遠ざけられていた。
しかし、2000年以上前の素朴な宗教観は、今の人々にはもう無い。
そんな神の死んだ世界に彼は、今の人々にも受け入れやすい新しい神話を創りたかったのでは無いだろうか?
世界に絶望したことのない人間は、本当の意味で生きたことのない人間だろう。
“ペシミズムはあらゆる知性の通過点である”とアルベール・カミュが何かに書いている。
だがそれは飽くまで通過点であり人々には救いが必要であると感じた彼は、彼なりの救いのヴィジョンをこの映画に託したのではないだろうか?

 

2001年宇宙の旅における神話的モチーフ:
アーサー・C・クラークはキューブリックとの初対面を

「彼は膨大な量の科学知識とSFを吸収し、空飛ぶ円盤を信じるという危うい方向に傾きかけていた」

と語っている。
空飛ぶ円盤とは第ニ次世界大戦後、東西冷戦の開始時期に目撃され始めた正体不明の飛行体なのだが、この様な現象は心理学者CGユングによれば人類史に普遍的な神話的モチーフであると言う。
冷戦、核抑止、自分達の手に終えない重大な問題に天上からの調停を期待するのはいつの時代も変わらない。
紀元前には雲の上に御座をおく超越的な存在が現代の世界観に即して外宇宙の彼方に住居を移しても不思議は無いだろう。
人間は有史以来知識を増してきたが知性についてはその限りでは無く、その本質はさして変わっていない。
核戦争による人類滅亡というシナリオは今となっては懐かしささえ感じられるが、しかし問題が解決されたわけでは決して無い。
主体性を無くした群衆が少数の人間に扇動され凶行を行う。
このような歴史はあとどれ位続けることが出来るのだろうか?
もしオウム真理教の様な過激なカルト宗教団体がテロを中近世に起こしていたのなら、これほど大事件にはならなかっただろう。
もしナチスの様な過激な全体主義集団が現代に再来したのなら、躊躇いなく核等の大量破壊兵器を使うだろう。
映画内では木星間有人飛行をも成し遂げている2001年を過ぎても現実の我々は未だ地球に留まざるを得ないという事はつまり、外の世界に目を向ける前に己自身を顧みよということではないだろうか?
孤独というものは意識化の必要条件であり孤独の中で己と向き合うということはつまり自らを識るということでもある。
動物世界における生存競争に勝利した人間はしかしその精神性を伸ばすことをせず、結局その生存競争を身内に向け同族同士で足の引っぱり合いや蹴落としあいを演じている。
人間とは何か?人間は何故生きるのか?
人間性について思いを馳せない人間に人間を育てることなんて出来はしない。
解決されねばならない問題とは何年何世代経とうが常に提示され続けるのだろう。

 

生きた神話としての「2001年宇宙の旅」:
童児神と言う神話的モチーフは、超自然的な出自をもちながら、或いはそれ故に孤児である。
しかし地上では孤独でありながら天上では神々の世界と繋がる祝福された存在でもある。
この神話素が生み出された時代の太古の人々はこの観念を死文化したものとしてではなく、まさしく生きた神話として捉えていたのだろう。
私はこの童児神という神話素について考える時、最初の存在の孤独に思いを馳せずにはいられない。
それが混沌より生まれた世界のことなのか、はじめて自らを意識した最初の人間なのかは判らない。
半ば自動的な存在達のなかで産声を挙げた最初の意識は、とても孤独だっただろう。
しかし自分が祝福されている、という幽かな予感も感じていたのではないだろうか?

 

投稿者:

ノクタジュール

万年筆が好きな人。