元型論・要約

 

人間が客体を「認識」するためには(外的物体等に「意味」を見出す為には)内的な対応物が必要となる。
哲学では「イデア」等と呼ばれるものを、心理学では「元型」と呼ぶ。

「意識」とは人体の各種感覚器から得た情報を統合処理する機能だが、その意識が「知覚」した対象に対する「認識行為」は、「無意識」と呼ばれる領域上で実行される「元型」と呼ばれる潜在的指向性に沿って動作するとされる。

ユング曰く

世界の「イメージ」は世界の半分を為す

 

 

人間の「心」は、認識の主座である「自我」と、それによって認識された「意識(領域)」、そして自我によって認識されていない「無意識」と呼ばれる領域に別けられる。

「無意識」はさらに個人的な要素によって構成された「個人的」無意識と「非個人的」な領域に別れ、非個人的な領域は人類共通の普遍的な心的基盤である為に「集合的」無意識と呼ばれる。

これは「自我」が個人ごとに様々な個性を帯びながらもハードウェアとしての「脳」の構造が同一な様に、人間の「意識」もまた多様な個性を見せながらもその深層においては同一なソフトウェア基盤の上で実行されている、という仮説とも言える。

そして心は深層へ向かう程(意識領域から個人的無意識、集合的無意識へ向かう程)属人性を失い、独自の普遍的自律的主体性を帯び、最終的には本能の様な反応系を経て物質的基盤ヘと至るとされる。

 

意識は物事を「知覚する」が、逆に言えば「知覚しか出来ない」、とも言える。
元型とはその知覚された客体に「意味」や「価値」を与える認識機能。

集合的無意識上で実行され、決まった形を持たない観念(先入観)そのものの様な存在で、民族や地域、文化、個人によって様々な形を取り時代と共に変化するもの、とされる。

この「集合的無意識」という現象は、複数の民族神話や精神病患者などの空想を「人間の生み出したファンタジー」として同列に扱い、その比較から共通項を見出す事により、これら類似性の有る空想を生み出す時代性、地域性を超えた人類共通の心的基盤が有るのでは?との類推から成り立っている。
そしてその活動は、有史以前からストックされ続けた静的な太古的経験情報の再現のみならず、動的な、個々人の現実生活的要素をも包括していると考えられる。

そして人類規模での個人的経験情報の集積による集合的無意識のアップデートと、集合的無意識からもたらされる「啓示的」な意味情報による(集合的)意識世界の更新は、ある種のフィードバックループを為しているものと考えられる。

 

しかしそれがどの様にして具体的に人類個体で実行されているのかは不明。
人間の個体情報は物理的な遺伝経路を辿るだけであり、しかもその個人の経験情報はその個体の死と共に失われ、如何なる形であれ遺伝的には継承されない筈だから。

それが個体の遺伝的経路を越えて民族や種族にまで及ぶほどの潜在的情報共有基盤とその歴史単位規模での全面的アップデートとなると、何らかの未知の構造(非物質的な!)の存在の可能性すら考察の対象に入る。

実際ユング自身は神話や伝説などに登場する所謂「あの世」は心理学に於いては「集合的無意識」の単なる言い換えに過ぎない、とまで言っている。

不可能事を消去していけば、後に残った可能性は、どんなに可能性が低く思えても真実に他ならない

との言葉もあるが、果たして…

 

この「認識の為の対応物」と言う概念をより深く演繹して行けば、人間の「人格」を認識出来る存在は、「人間的な人格」ないし「人格的な何か」という対応物を持つ、それ故の「人格神(人格を持った神)」、といった存在すら仮定できる。

もしくは、人間が「神的な存在」を認識する為には、その対応物となる「神的要素」が内在していなければならず、それ故の神概念認識の為の「元型」と言う反照。

そして恐らくこれらの考えは鏡像を為すのだろう。

 

詰まるところ、「歴史とは進行し続ける神性の受肉」であり、「自己実現」とは、敢えて誤解を恐れずに言えば、「神が人間を通じて外界に実現する過程」そのもの、とも言えるだろう。

投稿者:

ノクタジュール

万年筆が好きな人。